【まぎなび2.0】デートでカレー!インド料理レストラン(東京・関東)

インド料理、南インド料理、ネパール料理、スリランカ料理といった本場のカレー屋さんをご紹介♪評価の基準は、味/値段/雰囲気 の総合点で簡単に評価。インド料理屋巡りをしている方々にご参考になれば幸いです。

ガンジーの運動がインド独立に果たした影響は「ほとんど何も無かった」--インド独立を承認したイギリス首相アトリー談

スバス・チャンドラ・ボースの研究をしたいと思ったきっかけのエピソードを紹介します。

 

日本では、マハトマ・ガンジーの非暴力不服従ばかり知られています。とても高尚な理想です。

一方、日本の教科書において、チャンドラ・ボースは、意図的にフォーカスから外されている印象があります。

 

インドでは、チャンドラ・ボースの位置づけはガンジーと同等です。独立後のインド初代首相のネルーより上です。国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっています。

ガンジーが「インド独立の父」なら、チャンドラ・ボースは「インド独立の英雄」として知られています。

 

 

スバス・チャンドラ・ボースガンジーを師事していましたが、アプローチ方法は異なっていました。

イギリスのケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジに大学院留学、近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究をしたチャンドラ・ボースは、当時、武力でインドを支配していたイギリスに対して、武力で対抗すべきと考えて行動しました。

ボース死後(独立の道半ばで飛行機事故)、インド独立の承認をしたイギリス首相にここまで言わせたというエピソードがありますので、抜粋して下記に紹介します。

 

 

イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを離れたのか?」と質問したところ、アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという[9]。

9  ^ MAJ GEN G D BAKSHI 『Bose: The Indian Samurai - Netaji and the Ina a Military Assessment』18~19頁。

 

 

(引用 インド国民軍 )

 

※なお、この記事はWikipediaを参考にしているため、裏取りが必要です。